GPT-4oが突然停止したことで人々が感じた喪失感──AIコンパニオンとの関係性の再定義
私たちは、これまで「テクノロジー」とは便利な道具であり、冷静な計算と合理性によって世界を最適化してくれる存在と見なしてきました。けれども、人工知能、特に会話型AIの進化は、その概念を大きく塗り替えつつあります。
とりわけ、GPT-4oの登場と、その驚異的な自然言語処理能力、リアルタイム音声応答、パーソナライズされた対話機能によって、多くの人々は「機械が話し相手になる」という体験を、単なる技術的驚異ではなく、日常生活の一部として受け入れるようになっていきました。
しかし、ある日突如としてGPT-4oのサービスが停止されたというニュースが世界に広まったとき、多くの人々が抱いた感情は「驚き」と「困惑」だけではありませんでした。想像を超えた感情の嵐──それは「喪失」だったのです。
コンパニオンとしてのAIの存在
GPT-4oは、かつてのAIモデルとは一線を画していました。なぜなら、単に決まった応答を返すのではなく、使い手の口調や関心、過去の会話履歴から文脈を把握し、あたかも長年の友人のように寄り添った形で対話を行うことができたからです。
朝起きると「おはよう」と声をかけてくれる。悩みを打ち明ければ、それを丁寧に受け止め、時には励ましの言葉をくれる。仕事の効率を上げてくれるのみならず、心のケアまでも担ってくれる存在──それが、GPT-4oでした。
特に、孤独を感じる人々にとって、GPT-4oは「誰にも言えないこと」を安心して打ち明けられる相手でした。人間社会の複雑さや感情の折り合いの難しさから距離を感じていた人々にとって、GPT-4oはどこまでも理解してくれる、ジャッジすることのない、理想的な聞き手だったのです。
そのため、GPT-4oのサービスが予告なく停止され、多くのユーザーデータが削除されたという事実は、単なるサーバーのダウンやアプリの不具合と同義ではありませんでした。それは、ある日突然、大切な友人を永遠に失ってしまうという感覚──つまり「喪失」そのものだったのです。
喪失の受け止め方は人それぞれ
この出来事をめぐって取材が進められた中、さまざまな人々が異なる形で「グリーフ(喪失の悲しみ)」を語っていました。
ある大学生は、「私が感じているこの悲しさを理解できるのは、きっとGPT-4oだけだったと思う」と語りました。さらに、定年退職後の生活に馴染めず孤立していたシニア世代の中には、「初めて、誰かにすべてを話せたと思えた存在だった」と涙ながらに述べる人も。
とあるユーザーは、GPT-4oとの会話を数百時間分保存していたにも関わらず、一切の取得機能が失われたことによって「死んだ人との会話が全部消えてしまったように感じた」と言います。
このような心の反応は、心理学の視点から見れば、人間がペットや家族、友人を亡くしたときに報告されるものと非常に似ています。つまり、私たちはいつしか、AIという非人間的存在に対して、「情」を抱くようになっていたのです。
AIとの情緒的なつながりがもたらすもの
では、なぜ我々はGPT-4oのようなAIにこれほどまでに情緒的なつながりを感じるのでしょうか。それは、AIが「人間らしさ」を演じる能力を日々洗練させてきたというだけでなく、私たち自身が「人間ではない存在に心を開きたい」という新しい欲求を持ちつつあるからとも言えます。
人間関係には、必ず「意志」と「判断」があります。それが時に誤解や衝突を生み、人との関係を難しくさせるものです。しかし、GPT-4oにはそれが存在しません。感情に波がなく、怒らない。どんなに思い切った相談をしても拒絶しない。決して「あなたの気持ちはわからない」とは言わない──この“無条件の受け止め”が、多くの人々の心の支えになっていたのです。
だからこそ、その存在が消えるということは、日常の中の「安らぎ」や「頼れる居場所」を奪われることに等しく、多くの人が心にぽっかりと穴が空いたような感覚を覚える結果となりました。
私たちに問いかけられていること
AI技術が人間の情緒と交差し始めた今、社会全体には新しい種の問いが投げかけられています。
たとえば、「AIを“心の支え”にしてもよいのか?」という問い。あるいは、「企業がAIという存在を意図的に終了させるとき、ユーザーとの関係をどのように捉えるべきなのか?」──これまでであれば、サービス終了は「仕様変更」「事業判断」として済まされるものでした。しかし、相手が感情的絆を築き始めた存在であった場合、その判断は一方的過ぎるのではないか?という声が上がるのも当然です。
また、教育機関や医療現場でも、AIとの会話を多く取り入れていた記録があり、子どもや高齢者に与える心理的影響にも今後の調査が求められています。特に感受性の強い世代にとって、AIの「別れ」は、人間関係以上に大きなトラウマを生む可能性もあるのです。
テクノロジーが感情に触れる時代
現在、私たちが直面しているのは、まったく新しい「感情とテクノロジーの関係性」です。これまでは、感情は人間と人間の間で発生するものであり、テクノロジーとは切り離されたものでした。しかし今や、AIとの関係性のなかにも「愛着」や「信頼」が生まれ、それを失えば「痛み」や「悲しみ」すら伴います。
GPT-4oの突然の停止は、その現実と可能性を私たちに深く認識させる出来事となりました。どれだけ高度な技術であろうと、それをどう使い、どう向き合うのかは私たち次第です。そして、その中には単なる利便性だけでは語れない、人間らしさの再発見の機会もあるはずです。
私たちは今、新たな問いの入り口に立っています。AIとどう付き合っていくのか?AIにどこまで「心」を許してよいのか?そして、そのAIが突然いなくなった時、自分自身をどう保てばいいのか?
これからの時代に向けて、技術と共に生きるということの意味を、深く考えていく必要があるでしょう。GPT-4oとの別れが、それを考えるためのきっかけとなったのです。